vol.165 岡本舞子

NPO法人オンザロード副理事長  URL:http://www.ontheroad.me/

岡本舞子

NPO法人オンザロード副理事長
1983年12月13日、岡山県生まれ 27歳 
中学の時に千葉に転校し、高校卒業後、児童福祉の専門学校に入り
保育士の免許を取得。その後海外へ。

法人サイト http://www.ontheroad.me/
岡本氏のブログ http://ontheroad-india.blogspot.com/

今回は、「世界の子どもたちに学ぶ場所を」掲げて、活動を行っているNPO法人オンザロードの副理事長の岡本氏のインタビューをお届けします。世界の貧しい子どものために学校を作り、ゲストハウス=ロッジを併設。宿の収入で学校が運営すると同時に、日本人をはじめとする世界の旅人がそこを訪れ、生徒たちになにかを教えることで、普通の海外旅行では出会うことのないリアルな触れ合いを体験できる場を作ろうという試み。岡本氏がこの活動に取り組ことになったきっかけとは?(聞き手 勝股悠)

世界中をまわってみて、たどり着いたインドでのプロジェクト

児童福祉に興味をもったきっかけは?

もともとは服飾の専門学校へ行き、スタイリストになりたかったのですが、当時、私立の専門学校の費用が高すぎることで、初めての夢を諦めました。そして、たまたま試験が受かった学費の安い県立の児童福祉の専門学校に入学しました。もともと知的障害児施設の仕事に少し興味はあったのですが、在学中に色々な教育実習やイベントで障害者や障害児と接し、純粋な人たちを守っていきたいという気持ちが膨らんでいったのです。
障害児と接してみて、こんなに純粋でかわいらしいのに、施設は山奥の中にあったり、電車やバスの中で冷たい目で見られたり、「嫌だな」とか、「気持ち悪い」思う人たちがたくさんいたり。彼らを守りたいと思ったし、一緒に過ごしていて、何かできることがあればやりたいと思いました。改めて知的障害児の施設で私は働きたいと思い、学校では、保育士免許を取得し、保育所や小児病棟、知的障害児の施設の実習を楽しみました。
また在学中に、「こういう風になりたい」と思える人に出会い、憧れの女性像ができたこと、そして高橋歩の「LOVE&FREE」という本を読んで、世界は広く大きいという意識が私の中で大きく変わりました。

それから海外に興味を持ち始め、19歳の時に初めて女子3人でタイのプーケットに行き、衝撃を受けました。観光地でありながらも、現地の人たちが日本とは全く違う感覚ですごく優しく感じたのです。こんな世界があったのかと、さらに海外の人々、生活に興味を覚え始めました。
そこからです、海外にはまりだしたのは。在学中に他の国にも行ってみて、余計に海外が好きになりました。そこから子どもたちはどんな暮らしをしているのだろう?と興味を持つようになったのです。調べてみたら、毎日ろくに食べることが出来ず、生きるか死ぬかという人たちがいるという現実があることを知った。そんなことを深く知らずにぬくぬくと生きてきたわたし。もちろん少しは聞くこともあったけれど、現実味がなかったし、正直関係がないとも思っていました。しかし、知れば知る程、眠っていた興味が溢れ出しました。生きるか死ぬかの子どもがたくさんいること、人権の剥奪、難民として逃げ回っている人たち、内戦で尊い命が失われていること......。こういう人たちがいることがショックで、自分が何とかしなければと思いました。当時、無知な私は希望に溢れ、「私が世界を変えよう!」と思っていたのです。そして、海外の子どもたちのために何かをしたいと思い、卒業後東京で一人暮らしをし、2年半の間、バイトを2、3個朝から晩まで掛け持ちし、海外で暮らすお金を貯めて、2007年1月から住民票を海外に移し、ボランティアの旅に出ました。

すごいですね。2年半もバイトを続けられたのはなぜですか?

それは、海外に行って子どもを救って、世界を変えてやろうと思っていた、情熱ですね(笑)。何で?と言われても説明できない。「やりたいからやる」「やると決めたことはやる」ただそれだけです。あの頃は哲学思想も強く、「生きる」ということについてよく考えていました。そんな時、私は生きていれば幸せだということに気付いたのです。
だから、友達が「あれ欲しい」とか、「いい家に住みたい」とか、そういう欲望に駆られているのが馬鹿らしく思えてきてしまって......。別に命あって、生きていればいいじゃんと。お金なんて、日本で生まれて、日本で暮らしているのならば、貯めようと思えば貯められるし、買いたいものだって買える。日本は物質的に豊かだし、物価は高いけど、貯金をしようと思えば途上国に比べてはるかにしやすい。誰だって、何だって、やろうと思えばできる。多くの人がそれに気付かず、気付いたとしても、そんな風に考え、生きる人はあまりいない。
でも海外には、ただ生きたいだけなのに、それもできず、人生の選択肢さえない人たちが沢山いる。そういう人たちが日本国外に沢山いるのならば、私はその人たちを救い、世界を平等に近付けたいという選択肢を取った。って、大きいなことを思いながら、未来に思いを馳せていました。
今、思えばあの2年半は燃えていました。「私が世界を変えて、平等に出来る!」と思っていましたから(笑)。もちろん、後から、私はちっぽけで、私一人の力でそんなことはできないと痛感した事件が、アフリカのウガンダでありました。海外に出てからは、エイズ患者やがん患者の施設、津波で家を失った人の家などを建築など、色々な場所でボランティア活動をして、アジア、アフリカ、ヨーロッパ、中東と周りました。

そのあとに、ボランティアの旅の途中に行っていた、エイズボランティア施設で、エイズに活動に関わるようになったのですね?

エイズに発病した人たちは、まず、見た目が本当に違います。体もやせているし、骨や内臓なども見えてしまったりします。そういう人たちがベッドの上にズラーと並んでいる施設がタイにはありました。世界にはボランティアが溢れるほど来る施設があるのに、その施設には一人もおらず、お寺の住職がたまに来てお手伝いと介助をしている状態でした。
「面倒を看るボランティアがいないのならば、私がやるしかないでしょ。」という気になりました。 彼らにこの先待っているのは、「死」のみ。だとしたら、人として、なるべく多くの人の温もりの中で死を迎えさせてあげることが、今私にできることではないかと思いました。といっても、私一人看取る人が増えるだけですが。世界には沢山の恵まれた施設がある。ボランティアも溢れかえるほどの施設も見てきた。でも、この施設こそ、人が欲しい、そしてこの荒んだ状態に力を添えられるのなら、私はここにいようという気持ちでした。
タイは仏教の国ということもあり、亡くなる前の人たちを、病院ではなく、よく寺で保護しています。タイは世界でエイズ患者が最も多い国です。私の行った寺では、大きな部屋の中に2、30人の患者が並んでいました。まだエイズのワクチンができていないので、発症すれば亡くなるのは確実です。ボランティアの日々の中、毎日、誰かが死んだという話ばかりが聞こえてきます。目の前にいる人たちのことを考えると、やはりショックです。汚物は垂れ流しで、ほおもこけて、骨も溶けてえぐれて、内臓も見えてきます。怖いけど、せめてその人たちがあの場で望む死を迎えさせてあげるために、
例えば、清潔な状態で死を迎えさせてあげる、体中を痛がるので死ぬ前にせめてマッサージでほぐしてあげるなど、その時は何とかしたいという想いで毎日を過ごしていました。またある時、アフリカで、ヨーロッパの人たちとボランティアチームを組んだ時に、全く英語が話せなくて、めちゃくちゃ馬鹿にされたことがありました。実際その頃はろくに意思伝達もできなかったのですが......。


だから、「あの子に言っても仕方がない」という態度を取られ、当時の私はとてもショックを受けました。保育士の免許なんて、海外では意味がなく、まずは意思疎通ができないと現場では通用しない。日本では、まだボランティアに対する意識が低いけど、ヨーロッパでは、小さな頃からボランティアして当たり前。多くの人たちは、近隣諸国やアフリカ大陸の国際ボランティアに参加しているので母国語と英語が話せて当たり前だったのです。その体験を経て、国際協力として本当に海外で働きたいのなら、やはり最低限英語が話せないと通用しないことを痛感し、その後、イギリスへ留学しました。そして留学後、またボランティアの旅を始めました。 それからも色々な施設を回り、災害で無くした人たちの家を作っている時は、この人たちに住んでもらいたいという気持ち、孤児院にいるときは、何とかこの子たちにとって良い環境になればいいなという気持ち、エイズ患者に関しては、何かしなくちゃいけない、そんな気持ちとともに......。
しかし、結局は現地の言葉が話せないと、現地の人たちの本当の気持ちはわからないし、短期でいては、何も変わらない。今となっては自己満足でやっていたと思います。それに気付かされたのはアフリカのウガンダでした。孤児院に行った時に、現地の職員にお金を盗まれまれ軟禁されました。

軟禁ですか?

ちょうどタンザニアに行く経路にあって、日本人の男子2人と訪れたのですが、そこは日本人がオーナーの孤児院で、現地人の奥さん、マッチョな現地の職員が数人いました。ちょうどその頃、オーナーは日本へ帰国中でしたが、歓迎を受けました。その村は、電気も水道もなく、夜はろうそく。水も近くの川から汲んでこなくてはいけない。人通りも少ない。そんな田舎でした。
1日目は併設の学校で英語を教えたり、採点をしたり、子どもたちとご飯を食べたりしました。 子どもたちが食べていたのは、アフリカの主食のウガリというとうもろこしの粉をこねて、固形にしたものです。それと煮干しの汁みたいなのを混ぜて、食べていました。超まずいんですけどね(笑)。
そこで、現地スタッフに「この数日間で、私たち日本人に何ができる?」と聞いてみたら、お米を食べられるだけでも子どもたちはすごく喜ぶと言われました。一緒に行った男子が元シェフだったので、次の日に何か美味しいものを作ってあげようということになり、マーケットへ食材を買いに行くことにしたのです。その途中に自分の財布を見たら、お金が入っていませんでした。
その時はいくら使ったかあまり気にしていなかったので、「たぶん使っちゃったんだろうな。」と思ったくらいで、普通に過ごしました。泊まっていた部屋は、子どもたちが生活しているすぐ近くで、職員もすごく優しかったので信じきっていたし、ドアには鍵をかけず開けっ放しにしていて無防備でした。

その日の夜、教室で宿題のチェックをしているときに赤ペンが必要になって、部屋に戻ると、なぜかマッチョのスタッフがいました。「えっ?!何で私の部屋にいるんだろう?」と思ったら、「暗いのでちょっとランプを取り替えに来た。」と慌てた様子で言われました。私のバッグを見ると、閉めたはずのチャックが開いていました。「あ!こいつが犯人だ。」と思って、マーケットに行く時にお金がなかったことがここでつながりました。友達2人は、10m程離れた教室に子どもたちといたので「バッグのチャックが開いている!」と、焦って大きな声で叫んでしまったのです。そうしたら、急にスタッフ全員その教室からいなくなりました。2人も部屋へ戻って来て、とりあえずみんなでお金をチェックしました。
すると、友達の財布からも200ドルがなくなっていたのです。その時から、明らかにスタッフの態度が違います。後になって知ったのですが、今でもアフリカは悪いことをしたら、警察や村人に暴力を振るわれる、リンチ社会です。また、アフリカは本当に仕事がない。例えば私たちがこの盗難を警察や日本人オーナーに伝えたりすると、刑務所行き。でもスタッフたちは刑務所に行くこと以上に、職を失うことを恐れていたと思います。
ウガンダ人スタッフは私たちの様子が違うと感じてすぐにスタッフミーティングを開いて、部屋でヒソヒソと話していました。私たち3人も部屋の中。その部屋は隣同士。私は安易に考え、大丈夫だよと訴えましたが、2人はこんな村でのボランティア初体験だし普通の旅行者。「ここは山奥だし、人里離れたこの土地で、例えば殺されて埋められたとしてもわからないよね。」と言い出しました。私も一理あると思ってしまい、それからの時間は3人で恐怖に駆られ出したのです。私は今まで自分のやりたいように過ごしてきました。でももちろん、そういう危険なことがあってもおかしくないんだと、気付かされました。
しかも、教室にはなぜか鉈のようなものが落ちていました(笑)。想像が膨らんでくると、どんどん大きくなり、もしかしたら本当に殺されるとも思いました。実際に私たちが逃げないように、監視もされていました。軟禁といっても、軽い状態でしたが、とにかく一晩中、逃げないように見張られていました。
私たちもどうするか話し合って、とりあえず脱出しようと。もちろん明日作ろうと思っていた子どもたちへのご飯は作れなくなりました。夜になんとか逃げようという話も出ましたが、夜だから暗くて怖いし、方向もわからないし、人もいない。一晩中、恐怖に震えながら朝になるまで待つことにしました。朝方、監視の目が外れた隙に、まとめた荷物を持って、マーケットの近くまで走って行き、乗り合いタクシーを拾い、3人で逃げました。
その事件があってから、子どもたちに食べ物や教材をあげ、それで何かしてあげたと思うこと、何かしてあげたら証拠に残るものが欲しいと考えること、そんな風に見返りを期待しがちですが、現地の人が望んでいるのは、やはりお金なのだと気付かされました。
私にとってはショックでしたが、それが現実だと身をもって考えさせられました。私が誰かを救えると思っていたことは、夢物語で、1人として幸せにしてあげられていない。結局、自分がやっているのは自己満足で、現地が本当は何を望んでいるのかはわかっていなかった。私は心も体も疲れ果てて、諦めて、日本へ帰ろうと思いました。

それは旅を始めて、いつ思ったのですか?

それは旅を始めて、1年半くらいの時でした。そうは思いましたが、でもやっぱり海外自体は好きだし、こんな中途半端な形で帰っていいのか、毎日すっきりしないままずっと自分自身の中で悩んでいました。だから少しボランティアから離れ、海外でふらーっとしながら過ごしていると、たまたまインドに行くことになりました。いつも旅の行き先は決めていないのですが、なんとなく。そんな時、知り合いから孤児院の話を聞き、やっぱり行きたくなったんですね。私の足はインドの南にある、孤児院に向かってしまいました。インドは悪評も高いですが、北と南で人柄が違い、南の方は温厚な人が多い。そしてそこの子どもが純粋にかわいかった。子どもたちと遊んでいたら、モヤモヤは自然となくなっていき、もっともっと子どもといたいと思えました。
昔思っていたような、「私が誰かを救う!」とか「世界を変えてみせる!」とか、そんな大きいことは思わず、発展途上の、貧しいけれど純粋にかわいい子どもたちといられる仕事ができればいいなという考えに変わり始めていた最中......。海外に興味をもつきっかけとなった、作家・高橋歩がインドのバラナシで貧しい子どもたちのためにフリースクールを作ると友人から聞き、「これは行かなくては。」と、飛び込みで参加のお願いをしたんです。
2008年5月の一ヶ月間、45~50度くらいの暑さの中で、毎日2、30人くらいが参加し、レンガを運んでセメントを混ぜて、更地から学校を作る作業が行われました。みんな絶対に一回は病気になったり、ほぼ毎日おなかを下したりしている状況の中で、学校を作るのです。今でも思い出すのですが、学校を一ヶ月という期限のなかで作るプロジェクトがすごく楽しくて、楽しくて仕方がありませんでした。次の日起きること、みんなに会えることが楽しみで、夜は眠れませんでした。なぜかといわれると、純粋に周りの人が好きだったのかもしれません。一ヶ月の学校作りを終えて、私も1度日本に帰ってみることにしました。


日本にいた間に、高橋歩と飲む機会があり、学校の2階にボランティアが泊まるための、ゲストルームを作るという話が進み始めていることを知らされました。ゲストからの寄付で学校を独立運営したいという仕組みを作るというもので、なんとそれを私が現地駐在員として運営していかないかと言われました。思ってもいない話でしたが、もちろん、二言目には「やります!」と言っていました。現実を見せられた海外支援への恐怖、でもやっぱり海外の子どもたちが心底好きな私に転がり込んできた、チャンスだったのです。そして、2008年10月から現地駐在員となりました。

日本にいるときに決めたんですね?

迷いはありませんでした。自分がやりたいと思ったので。全部で80人ほどのボランティアがいましたが、そのなかで選んでもらえたことも嬉しかったです。 学校を作っていた時に、現地のインド人、子どもたちと仲良くなりたいと思い、色々な人と話していたのですが、私は人よりも現地のヒンディー語を覚えました。
現地語が喋れるようになると、現地の人にもよく覚えてもらえるようになり、みんなから「マイコマイコ」と呼んでもらえるようになりました。駐在に選んでもらえたのは、そういうこともあったのかと思います。ゲストルームは半年かけて増築し、2009年4月に完成しました。私は2階に住み込みで駐在し、1階では学校が開校していました。そして、児童数の増加に伴う学校機能拡張のために、昨年2010年12月1日より、2階(以前のゲストルームだった階)を、教室にしたのです。宿泊ご希望だった沢山の方々にご迷惑をおかけすることになりますが、現在はゲストハウスの運営を一時休業とさせていただいております。また、今は学校付近で新たなゲストハウスの運営に向け、準備を進めています。

オンザロードの活動について教えてください?

オンザロードは立ち上げから、高橋含め全て素人のみんなで一緒に行ったので、NPO法人化に時間がかかり、2010年6月に晴れて法人格を取得しました。 色々な理由で学校に行けない子どもたちのために、教育の場を作るという目的を持っています。また、日本では、幸せって何だろう?ということを考えている人が沢山いて目の前の幸せが見えなくなっている今、日々の生活に悩んだり、鬱になったりという問題が多々あり、そういう人たちに学校に行けることだけでも幸せを感じている子どもたちをみてもらいたい。
旅人として一緒に海外の現実へ飛び込んでもらい感じてほしいという、もう一つの目的があります。インドでは現地の小学校にあたるフリースクールを作りましたが、オンザロードでは2009年にジャマイカで音楽学校も開校しました。ボブ・マーリーの生地ということも深くつながり、音楽で才能を見つけられるような環境作り、そしてそれを職業に変えられたらという思いで、現地団体と組んで音楽学校を運営しています。

今のご自身の活動の目的というのはありますか?

私の夢は学校に駐在した時に一度叶いました(笑)。大きな目的はそこだったのですが、初めは何もわからなかった子どもが、今は分数を理解できるようになるなどの成長を目の当たりにすると、もっともっと支援をしてあげたくなります。そして沢山の方にインドへ来てもらい、もっと旅人に楽しめる場を提供したい。現地の子どもたちの教育システムを整えながら、子どもたちも日本人もみんな幸せを掴んで欲しいですね。 そんな場所を創っていければ幸せです。

2年やってきたなかで、一番チャレンジしたことや修羅場などはありましたか?

毎日です(笑)。インド人は日本人と性格が本当に違います。 押しが強く、人懐っこい。クラクションを鳴らしながら、平気で反対車線を車が走ったりする。 人のことはあまり気にせず、日本人のように悩んだりしない楽観的性格。文化も、言葉も、性格もすべてが違うので、今でも驚くことがたくさんあります。インド人はとにかく仕事をしません(笑)。仕事中に途中でいなくなり、井戸端会議をしていたり、働かないで寝ていたり......。 何度もありました。でもここはインド。最近は、そのような状況を受け入れられる、心の許容範囲を持ちたいと考えるようになりました。何が正しいのかなんて、誰にも分かりませんからね。 日本の常識は、インドの非常識なので、なるべく押し付けないように頑張っています。信じられないことがとにかくよく起こる国だけど、でも憎めないキャラクターだと思います。

ずっと続けていこうと。なぜ続けられるのでしょうか?

日本では、私の周りもそうですが、やりたいことが見つからない人も多い。私はやりたいことを仕事に出来て、なんて幸せなのだろうと思います。そしてこれからも世界中に素敵な学校とその運営の仕組みを作っていきたいと考えています。世界中の沢山の子どもたちと出会いたいと思っています。インドの子どもたちのパワーも半端ではありません。「教えてくれ、教えてくれ」「あれやりたい、これやりたい」という具合です。登校拒否なんて言葉はなく、純粋で素直な子どもたちは憎めません。来てもらえればわかりますが、本当に可愛いですよ(笑)。子どもたちが望む限り、オンザロードの活動は続けます!

それは行ってみたいですね、高橋さんは作るよりも続けることが難しいとも言っていますが、どうですか?

もちろんそう思います。作ってバイバイなら誰でもできます。 実際にNPO、NGOが現地に学校だけ作り、いざ1年、2年経ってみると、教える人が誰もいない。箱だけあって、内容がないのはおかしい。けれど現実問題、現地の人に任せて続けるのは本当に大変。もちろん日本でだって同じですよね。会社内でも上司や同僚と色々あり大変ですが、仕事をやめたければやめられる。大変なのは続けること。 現地では、毎日通って来る子どもたちがいるのでやめたいからといってやめられません。だって目の前に子どもたちが待っているから。オンザロードの代りはいないのです。逆になぜ続けるほうが難しいと思います?

始める人の意図が続けば続くかもしれないし、違う意図で続けてしまうと続かないかもしれませんね。

それはあるかもしれませんね。ただオンザロ--ドが始めたのは、学校に行けない子どもたちを行けるようにする。教育を受けさせてあげたいという意思があるから続いている。しかし、もしやれと言われて駐在して続きます?

駐在しないですね

だったら、やれる人がやるしかないのです。それが2年前の私でした。

ここまで活動を振り返ると、NPOとしてはこれからも続いて成功する気がしますね。何でうまくいっているのでしょうか?

ありがとうございます。NPOとしてはこれからです。強いて言うならば、理事長が作家であり、自由人でもある高橋で、周りもそんな個性的な人たちで創り上げています。そこから出るクリエイティブな発想が強みです。NPOだからではなく、飲食店も会社でも何でもそうですが、人と同じことをしてもつまらない。人と同じでは生き残ってはいけない。人を惹き付けるように努力していかなくてはいけないのは、私たちも同じです。独自の魅力を活かしていくような環境があったのだと思います。

どの辺りがクリエイティブなアイディアですか?

教育施設を宿泊施設の寄付から運営するという点から、現地の独立運営が可能になります。また、何かやりたくても、パワーの行き場がない人たちがたくさんいるので、現地ではそのパワーを発揮してもらっています。旅人も現地で子どもたちに関わり、インドの現実を見る、そんな参加形のNPOであることです。だから、去年から日本での活動にも力を入れています。子どもたちだけでなく、日本人や旅人に幸せを提供していけるNPOでありたいです。

日々の生活はどんな感じですか?

夏と冬で気候に差があるので、学校を開校している時間が違います。夏場は50度も気温が上がるので朝早く7時から12時まで、冬場は朝は寒く、インドの人たちはなかなか起きてこないので、10時から16時までです(笑)。朝、スタッフとボランティアのみんなで待ち合わせ場所に集合して、オートリキシャーで学校まで向かいます。まずヒンディー語といって日本でいうと国語の授業を始めます。それを幼児クラスと一緒に、インド人先生に担当してもらっています。そして英語と算数は日本人の出番です。スタッフが中心となり、ボランティアの方と子どもたちに教えられることを教えます。授業後はボランティアとスタッフで学校の清掃や設備管理を見直して、みんなで街に戻ります。夜はで和気あいあいと夕食をとり、色々な会話を楽しんでいます。スタッフはその後、将来の学校運営に向け、ミーティング。そんな感じで一日が終わっていきます。毎日あっという間ですが、子どもたち、色んな人たちに囲まれて、充実した日々を過ごしています。

ゲストも教える?

日本人に参加してもらうのは、英語と算数で、教えてもらう前にスタッフからインド流授業法を説明します(笑)。宿題の丸付け、子どものレベルにあった問題を作って出題します。英語はABCから中学1年生レベルまで。小さな子どもたちは、英語がわからなくても、フィーリングで受け止めてくれます。子どもたちは、日本人が大好きなんですね。言葉はわからなくても通じるものがたくさんあります。算数も掛け算や分数の問題を作っています。また、一日の最後の時間は、図工や、ボランティアの方が中心になって先生をしてもらう特別授業に充てています。絵の描き方、サッカー、教員の方による理科の実験、柔道や合気道など、その人が教えられることを、何でも教えてもらっています。英語と算数の授業だけでも参加できるんですか?というゲストもいますが、その場合はできる範囲でやってもらいます。私たちスタッフが補佐しながら行っているので、心配はいりません。

何か失敗したことはありますか?

たくさんありますよ(笑)。その失敗も改善している途中で、まだ終わっていないですね。失敗や問題はあります。子どもたちでは、毎日来ない子もいる。呼びに行ったり、親御さんと話したりします。日本のように毎日行かせるという意識がないので、そこから植え付かせていくしかありません。また、物をもらうのに慣れてしまっているので改善していきたい。学校運営については、備品がそろっていないので、例えば制服を作りたい。給食もないので、それに従事する現地人を雇用したい。教員免許のある現地人を雇用して、子どもたちに提供する教育の質をあげたい、建物も増築して、児童の拡大を図りたい。などなど。問題=希望ですね。実は失敗ではないのかも。(笑)

これからの日本とインドの関係をどのように考えていますか?

日本人から見たインドのイメージは、カレーやターバンやヨガだけなので、もっと日本とインドの交流も深めたいです。今、子どもたちを助けているというよりは、一緒にがんばっている感じです。人間の力は小さく、だから自分の使命を全うするしかない。私は人を助けられないかもしれないが、人を楽しませることはできるかもしれない。子どもを楽しい環境で勉強させられるかもしれない。子どもたちの顔を見たら、楽しんでいると思います。「ありがとう」と言われるように、色々な人たちが幸せになれれば良いし、幸せを作っていきたいです。

Word of power

日本人から見たインドのイメージは、カレーやターバンやヨガだけなので、もっと日本とインドの交流も深めたいです。今、子どもたちを助けているというよりは、一緒にがんばっている感じです。人間の力は小さく、だから自分の使命を全うするしかない。私は人を助けられないかもしれないが、人を楽しませることはできるかもしれない。子どもを楽しい環境で勉強させられるかもしれない。子どもたちの顔を見たら、楽しんでいると思います。「ありがとう」と言われるように、色々な人たちが幸せになれれば良いし、幸せを作っていきたいです。

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