vol.047 貝ノ瀬滋 / Kainose Shigeru

三鷹市教育長  URL:http://www.city.mitaka.tokyo.jp/a002/p110/g15/d11000001.html

1948年北海道生まれ。 中央大学卒。電気通信大学大学院博士課程中退。 東京都内小学校教諭、東久留米市教育委員会、都立教育研究所、東大和市教育委員会、 三鷹市立第四小学校校長などを経て、現在、三鷹市教育長。地域と学校をつなぐコミュニティスクールの草分けとして三鷹市で様々な教育改革を実施。 アントレプレナーシップ教育導入の先駆者。著書に『市民が考えた不登校問題-心の叫びに答える-』(共著・教育出版)、 『子ども・学校・ 地域をつなぐコニュニティスクール』(共著・学事出版)他

こんにちは! テトルの本村拓人です! ! 今回は「行政から社会を変えていく」というアプローチで貝ノ瀬さんにお話をお伺いしたいと思います。

まずは貝ノ瀬さんご自身が社会起業家になるまでの いきさつをお聞きしたいと思います。

元々は第一線の教員でした。背広なんて着ずにまさに朝から晩まで子供と格闘していたんです。 私自身の生い立ちは、北海道の三笠市という炭鉱の町に産まれて、父親が炭鉱夫でした。

ところが高度成長期を過ぎた後、石油が主流になってもう石炭は見捨てられちゃって閉山になった。それで人員整理されていく中で、私自身が15歳のときに父親が早期退職を迫られ、会社の斡旋で東京の方に職を求めたんですよ。そのときの生活の変化が非常に大きかった。15歳までは北海道の山の中で、自然豊かな地域の有機的で濃密な人間関係の中にいたんです。

昔は北海道の炭鉱町には炭住がいっぱいあったんです。炭鉱労働者の住む住宅が炭住。私も炭住に住んでいました。みんな長屋なんですよ。一戸建てがほとんどない。多いところは、その長屋が10軒くらい並んでいます。だから隣近所が密接で、壁一枚で隣の家。隣も子供がいたりして、大体同じくらいの生活レベルだから、貧しくてもお互い助け合って生きていました。

貧しいといっても、最盛期の時は炭鉱夫も結構収入がありました。だからむしろテレビが最初についたのは北海道の中では炭鉱町だったとか、それから洗濯機とかも最初に買ったのは最盛期の時の炭鉱夫だった。だんだん落ち目になっていきましたけれども。

とにかくみんな助け合わないと生きていけないから、相互扶助の濃密な関係があった。小さい子から大きい子までみんな入り乱れて遊んでました。今は学年が同じくらいの子供たちで遊んでいますが、そこでは大きい子が小さい子の面倒をみたり、小さい子が大きい子を尊敬したり、という中で育ってきました。

日常的な味噌、しょうゆも貸し借りしていて、お金の貸し借りも頻繁にあった。もちろん証文をとるわけでもないけど、きちんと返す。夕飯も親がちょっといなくて遅れたりすると、「うちで食べていきなさい。」とかいって。でも別に恩をきせるわけではない。そこはお互い様だったんです。僕にはそういう昔型のコミュニティーの中で暮らしてきたという自分の生活体験が土台としてあるんです。

ところが東京に来たら今度はもうがらっと変わった。たまたま通っていた中学校が高田中学という、今は統廃合されてなくなってしまったんですけど、豊島区の進学校でした。そこから小石川高校、東京大学という、当時そういう進学コースがその地域にあったんですね。たまたまうちの叔母がそこの学区域にいたものだから、そこに僕が一時期家庭の事情で預けられていたんです。

その頃の中学生は、みんな青白い顔をして勉強してるんですね。ある日休み時間になると、友達がそばにきて「貝ノ瀬君昨日テレビ見た?」なんて言うんですよ。

「いや、見なかった。昨日は他のことしてた。」なんていうと、「そんなこと言って勉強してたんだろ。ガリ勉だなー。」とか言われるんです。 それで非難される。その子が周りの子に「貝ノ瀬君ガリ勉なんだよ。テレビも見ないんだよ。」とか言うんですよ。それで昨日なんとかっていう番組がどうだったって話をしている。じゃあ僕もテレビ見なきゃいけないのかな、なんて思ったりして。

でもその子がいなくなったら、違う子が来て「貝ノ瀬君、気にしない方がいいよ。あいつはテレビなんて見てないんだよ。朝、母親にテレビのあらすじを聞いて、それを言ってるだけなんだよ。だからそんなこと気にしなくていいんだよ。ちゃんと勉強をするならした方がいいんだ。」と、そっと言ってきてくれた。

自分は恐ろしいところにきてしまったと思いました。15歳にしてお互いを蹴落とすような、足の引っ張り合いみたいな。東京では本心を出せないというか、そういうところなんだなって自己防衛をするようになりました。それがもうカルチャーショックで、東京ではそういう中でずっと暮らしてたんです。

僕としてはそういった子供のときの生活体験とか生い立ちが、やはり自分が職業について仕事をする上で価値観の原点になっていると思います。それは自覚として今こういう価値観をもっているから、こういう仕事をして、こういうことを始めるんだ、というような明確なものじゃない。そのときは夢中で、自覚はないんです。終わってしばらくして振り返ったときに、「そうか、こういう必然的な流れの中で自分は動いているんだな。」と確認するんです。

教員という選択も、僕の場合はほんとたまたまなんです。元々僕は弁護士志望だった。父親がガンで早く死んじゃったから、夜間の大学に行った。中央大学に行ったんですけど、中央大学の二部はほとんど試験がなくて、誰でも入れたし、お金も安かった。 それで昼間仕事をしながら夜間大学に行くなら、きちんと時間通りで帰れる公務員がいいと考えて、東京都を受けて、派遣されたのが豊島区役所でした。

豊島区って言ったら、池袋ですよね。池袋で一番近い学校というと、明治、日大、中央があって、一番入りやすいのが中央だったから、それで中央に入った。そこに四年間通いながら、仕事をしました。仕事と言っても、高卒で役所に入るということは、給仕みたいな仕事でした。

ところが当時は弁護士志望だったんですけど、やはり働きながらではちゃんと勉強できないことに気づきました。だから期間を三年間と決めて、その期間真剣にやろうと思ったんです。もちろん同時に食べていくことも考えなければいけなかった。そして弟や妹もいた。

当時は学校に警備員制度があったんです。今は機械警備ですけどね。昔はゆとりがあって、警備員はちゃんと公務員で置いてたんです。その仕事は一日おきに行って、夕方五時位に行って、次の日朝八時位に帰れるんですよ。夜仮眠してもよかった。条件がすごくよかった。八時位になると学校の先生も誰もいなくなる。勉強もできるし、眠くなったら寝てもいい。さらに給料もよかった。特に休日とかお正月は、特別にお金が出る。

三年やって三百万位たまったんです。勉強に集中して、夜は警備員室にこもって、他に使い道がなかった。でも勉強は十分じゃなかった。三回試験を受けても受からなかったんです。その時点で勉強をやめました。

どうしたらいいかな、と考えていたときに、その時いた北区の滝野川小学校の校長が、「貝ノ瀬君、君どうするんだ?」って聞いてくるんですよ。また公務員になろうかとか考えたりしていました。そうしたら校長先生が、「貝ノ瀬君、弁護士とか法律家もお国のためになるかもしれない。しかし未来をつくっていく、将来を作る教育の仕事、子供たちを育てるというのも、これは非常に国の運命を左右するくらいの大きな仕事なんだよ。」と言ったんです。心を動かされました。それでだんだん教員も考えるようになりました。

それ以降その校長が、夕方警備している僕のところにたびたび説得に来るんです。教員になれと。当時小学校の免許はなかったんですけど、たまたま中高の免許はとってたんです。でも目の前の校長は小学校の先生だから、教育の原点は小学校だと言う。中高になったらもうある程度大きくなって、色がついてる。小学校で、まだ無心なところでどう教育するかによって、その子の生涯が左右されると。じゃあ小学校なのかなと思いました。

それで玉川大学の通信教育を受けて六ヶ月で免許をとったんです。中高の免許でとった単位を基礎にしてくれて、あと少しとって、夏のスクールに行ったら、もう九月位には免許がとれた。

免許をとれる見込みでその夏に教員採用試験を受けたんです。そうしたら受かりまして、その校長のお世話で北区の教員になったのが出発点でした。 つまり、恥ずかしいのですが、私の教員としての出発はほとんど「でも・しか」先生なのです。

Word of power

●とにかくみんな助け合わないと生きていけないから相互扶助の濃密な関係があった
●そのときは夢中で、自覚はないんです
●そうか、こういう必然的な流れの中で自分は動いているんだな

貝ノ瀬氏のインタビュー(一号)は以上になります。

次号も引き続き貝ノ瀬氏のインタビューをお楽しみください!

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