vol.099 飯島 博
NPO法人アサザ基金代表理事 URL:http://www.kasumigaura.net/asaza/
1956年長野県生まれ。国内第2の湖、霞ヶ浦の環境再生を目標に、独自のアイデアで様々なビジネスモデルを提案。流域の170を越える小学校などの教育機関や企業、行政、農林水産業を結ぶネットワーク事業を展開している。市民型公共事業「アサザプロジェクト」には、のべ16万人以上の市民が参加。先進的な取り組として注目されている。
こんにちは! テトルの本村拓人です!!
今週は3回にわたって、NPO法人アサザ基金の代表を務める飯島博さんにご登場いただきます。
アサザ基金が推進するアサザプロジェクトは、市民型の公共事業。
茨城県南東部から千葉県北東部に広がる湖・霞ヶ浦周辺の環境保全と、
持続型社会の構築を目指す活動が行われています。
多彩なプロジェクトを通じて、行政、企業、市民など、さまざまな組織や団体と繋がりつつ離れつつ、新たな共働体勢を次々に構築するアサザプロジェクト。
それぞれの取り組みには、延べ人数で16万人を越える人が参加しました。
...さらりと読み流してしまった人のために、もう一度。
このプロジェクトにはこれまで、延べ人数で"16万人"の人が参加しているのです。
16万人。ひとつのプロジェクトに参加する人数としては、破格です。
16万人という人数は、簡単に想像ができるものではありません。
なぜ、アサザプロジェクトは、これほどたくさんの人の参加を可能にしたのでしょうか。そのキーワードは、「中心のないネットワーク」「言葉(文脈)の読み換え、言い換え」「子供とナンセンス」。全3回のインタビューを読み終えたときには、あなたにも"何か"が起きるかもしれません!
まずは、飯島さんが手がけるアサザプロジェクトの全体像を教えてください。

ははぁ~。どうしようかな。ひと言で説明すると、従来の枠組みを溶かして、新しい社会のシステムを作ろうとしてんですよ。枠組みを壊す、のではなく、溶かす、ね。いまどうなっているかと聞かれると、もちろん僕にはわかっているんだけど、説明するのが非常に難しいんです。分野横断的な取り組みをしているからね。
僕が考えるアサザプロジェクトの展開というのは、ツリー状じゃない。ひとつの幹があって、そこから物事が枝わかれして広がる樹形状じゃないんですよ。そうじゃなくて、リゾームなんだよね。つまり地下茎のような感じだね。地面の下に根をはる草のように物事が広がっていて、いろいろなところに交差する点がある。そういうものを考えているので、点から説明していくものではないんだよね。点と点を結ぶ線でもなく、つまり「動く線」なんだ。
最近力を入れているのは、地球温暖化防止事業。いま、企業やNPOなど、いろんなところが地球温暖化防止に取り組んでいるよね。でも、たいていは部分最適化しちゃってる。環境技術やシステムはすごく効率がよくなっていたり性能が高まっていたりするんだけど、相互の関係性について言及しないまま終わってしまっているんだよ。それでは限界がある。問題は社会システムそのものにあるわけだから、それぞれの技術をどれだけ洗練させていっても、バラバラなものを寄せ集めるだけでは、大きな効果はないと思ってる。全体の効果を足したときに、足し算以上の効果が生まれるようなことを社会に対して起こさなくてはならないんだよ。そのためには、自分が点ではなく、動く線にならなければだめ。
そういうことをやろうとするとね、社会の中にあるさまざまな潜在性にみんなの目を向けさせる必要が出てくるわけだ。そこで、そういう流れに全部持っていこうとしてるんです。地球温暖化にしても水質汚濁の問題にしても、地域のさまざまな課題にしてもね。取り組みを通じて社会のさまざまな問題に気づくことで、逆に自分自身や自分たちの身のまわりの存在する潜在的な可能性に気づいてほしいんだ。そういう流れを作っていきたいんです。潜在性というのは、自分が流れの中に飛び込まないと見えてこない。そのためには環境教育とか総合学習が一番大事なんですよ。問題解決型の取り組みじゃなくてね。
問題解決型の取り組みもすばらしいと思うのですが、それではいけませんか?
だっておもしろくないじゃん、問題解決型は。ゴミを拾うとか、電気使う量を減らすとかさ。
(笑)おもしろくないですか?
人間は本来、欲望によって成り立っているし、世の中も欲望で動いているんですよ。資本主義社会はまさに欲望が形作っているものなのに、"それをいかにコントロールするか"とか、"規制するか"とかみんな言ってるわけ。"このやっかいな欲望というものをみんなで押さえ込まないと地球はヤバイ"ってね。それはたぶん形にならない。禁欲主義的な方法は、社会の本質的なものからかけ離れてしまっている。精神論に近いんだ。竹槍を持って、タコ壺を掘ってって感じ。それって敗戦間際の戦術ですよ。
形もなにもわからない怪物のような欲望をなんとかしてみんなで抑えていかないとなると、欲望を人間と切り離して考えなくてはならなくなる。それがまず発想としてよくないね。そうではなくて、欲望そのものをデザインしていくんだよ。
問題解決型だとね、どうやって欲望を抑え込むかってことがテーマになることが多い。それはね、人間の本質からいっても不可能なんだよ。それに欲望を抑え込んじゃったら、生きていてなんにもおもしろくないじゃない。もちろん、ゴミを減らすことで欲望を満たしている人もいるかもしれないけど。うふふふふ。
もっとさ、モノを産み出していくとか、新しい領域をどんどん切り開くなんてことをやっていかないと。そういうことのほうが人間本来の欲望に近いんだよ。
しかし、ゴミを拾うという行為も、決して悪いことではないと思うのですが。
もちろんやめろって話じゃない。バカにしているわけでもないよ。よく誤解されちゃうんだけどね(笑)
部分最適化された技術やシステムが欲望をうまく取り込んだものであるならばどうなんでしょうか? それでもやはり連動は重要ですか?
重要です。ゴミを拾ううちに、ゴミを拾うことだけが自己目的化して自己完結的になると、そこからは環境というキーワードには繋がらなくなるでしょう? 環境というのはすべてが繋がり合っているんだ。部分と全体が繋がり合っている。これが本来の環境なんです。自然もそう。自己完結してたり、自己目的化したものはあまり意味がない。
ゴミを拾うという行為ひとつにしても、それだけが自己目的化し、自己完結してしまえば、環境という大きな繋がりを作っているものには関われないよ。
ゴミを拾うことはいいことだけど、環境全体について考えていなければならないと。
そう。自己完結してはダメなんだ。自分たちのあらゆる行為が自己完結しないことは命題なんですよ。そういうゲームなんだよ、ゲーム。あとは言葉遊びだね。読み換え、言い換え。既存の近代化の文脈の中で繋がってしまっている言葉を読み替えたり言い換えたりすることが大切なんだ。
それはどういうことなのでしょうか?
たとえば、いろんなことが合理化されているわけでしょ? いま取材を受けているこの喫茶店という空間だって近代化という文脈の中に取り込まれている。表に車道と歩道があって、その脇にあるビルの中の喫茶店なわけだ。そういう空間とか言葉の読み替えをしていかないと、近代化の文脈の中からしかものごとが作られていかない。みんな、完全にそうなっちゃってるんだよ。そこから抜け出さないとさ、自然や環境といったものは見えてこないよ。だって、この喫茶店から一体どんな環境が感じ取れますか? 感じ取れないでしょ? 完全にひとつの近代化の文脈の枠に収まっている。図式化されてしまっているでしょ?
近代化の文脈から抜け出すには、どのような読み換えや言い換えが有効なんですか?
ひとつは子供だよ。
子供?

子供っていうのは、近代化の文脈とは別の次元を生きている。いわゆるナンセンスの世界だよ。大人の世界にもナンセンスは必要なんだよ。文脈をわざとはずすためにさ。文脈から外れることって、ものすごくおもしろいじゃん。世界が奇妙に見えてくるからさ。うふふふふ。それがやっぱり大事だと思うんだよね。ある種のナンセンスがさ。
たとえばいま、秋田県と組んで八郎湖という湖の再生事業やっているんですよ。そこには昔から伝わる有名な話があってね、大きな竜が住んでいたっていうんですよ。古い物語でね、埋もれてしまっていた話なんだ。そのプロジェクトの目標はさ、その大きな竜をもう一度、湖に呼び戻すことなんだ。昔住んでいたわけだから、不可能じゃないでしょ? でも、肝心の竜がどこにもいない。しょうがないから、トンボを小さな竜に見立てて、ドラゴンフライって名前で呼ぶことにした。あのトンボは実は、大きい竜の生き残りで、こんな小っちゃくなってるってことにしたんだ。うふふふふ! 湖をその小さい竜だらけにするぞっていうストーリーで環境再生に取り組んでるってわけ。
竜という生き物はどんな形をしていて、どんな生活を送っているのかを、子供たちに話して聞かせてるんだよ。考えてみれば相当ナンセンスだよね。子供に「先生、竜っているんですか?」って聞かれたら、「そんなもん、いるかいないかわかんないものなんて世の中にいっぱいあるんだよ」って言ってさ。うふふふふ。そんな授業もやってんです。
あと、霞ヶ浦はカッパね。誰もがみんな、カッパの話ができるようになったら楽しいと思わない? カッパってこういう生き物で、こういう生活してるんだよってさ。だから、いま霞ヶ浦ではカッパを呼び戻すプロジェクトをやっているんですよ。もちろん真剣にやってるよ。生態をきちっと調べてね。うふふふふ!
そのような物語のテーマを設定しているのは飯島さんなんですか? それとも子供たちから出てくるものなんですか?
基本的には僕が作っていますが、子供から学ばせてもらうこともたくさんありますよ。学校に出向いて自然に関する1コマ45分の授業をやっているんですが、授業の前には僕なりに流れを作っていくんですね。しかし、その通り進めようとしても子供たちに必ず外されてしまうんです。想定外の反応や意見が出てきて、どんどん脱線していってしまう。別に彼らは意図的に外しているわけじゃないんだけど、徹底的に外されてしまうね。思い通りの授業なんてできないよ。もちろんふざけもあるんだけど、彼らは真剣なんだ。
子供たちの将来を思うと、自然が豊かな世界を残したくなりますね。
大切なのは、ひとりひとりのコミュニケーションなんだ。世界から切り離された絶対的な個なんてあるわけがない。デカルト的な発想ではないんだよ。個と世界を切り離すような、そういうものの見方が環境破壊をはじめとした近代のさまざまな問題を引き起こしているんだ。すべてが相互に関わりを持っているということを理解しなくちゃ。
とくに人格形成期は感覚の世界を生きているわけだから、いろいろな場所に飛び込ませて、さまざまな相互作用を受けさせてあげないと豊かな人格なんて生まれてこないよ。社会に適応できない若い人たちや組織の中でうまく立ちまわれない人たちっているでしょ? あるいは、社会になにかいいことをしたいと思っているような人たち。彼らは固まってしまった個にこだわりすぎているからいけないんだ。とくに都会に暮らしている人たちはよくないね。アイデンティティとか個の確立だとかさんざん言われて育てられてきたから。
でも僕はね、実は固まった個なんてあるわけがないと思っています。僕は自分のことを、"個"ではなく、"場"だと考えているんです。大事なのは場として開いているかどうかってことなんだよね。場として開いていれば、想定外の出会いがたくさんある。だからおもしろいんだよ。社会に必要なのは、個々の人格が場として機能するネットワークなんだ。
なるほど、そうなんですね。
結局、みんな自分のオリジナルのようなものにこだわりすぎているんだ。自分の個が壊れることを怖がっているせいで、いろいろなものが見えなくなってしまっているんだよ。そんなことでは社会に働きかけて社会にインパクトを与えるようなことはできない。場として機能しないとダメ。社会の場として機能しないと。
するとアサザプロジェクトを運営する主体は、決して飯島さんという個でなくてもよいと思っていらっしゃるということなんですか? 集合の中の個ではあるけれど、個としての意味はあまりないと。
そうでないと継続しないんですよ。リーダーが持つ個性的なキャラクターに象徴されるような運動は、そのリーダーの人格を引き継ぐ形で継承さていかなければおかしくなってしまうからね。ところが、そんなの同じように継承できるケースなんてまれだから、だいたい陳腐化していくよね。それこそピラミッド型発想で、ネットワーク型の対局の発想ですよ。よい活動をしているならしているほど、避けるべきだよね。
秘訣は自分そのものをネットワークの中に分散させること「動く線にする」ことです。いたるところに飯島がいるような状態を作るんだ。あそこに問い合わせたら飯島がいるということではなく、どこにでもいるようにするんだよ。想定外のところにいる。そういう状態を作る。そういうことを発想できるようにならなければ、社会に対してダイナミックな働きかけはできない。
アサザプロジェクト自体は、飯島さんという場を中心にしているとは思うのですが、活動自体は別の場所にどんどん広がって行かなくてはならないということですね。
中心は僕じゃない。僕は見えない起点、「動く線」なんだよ。ポーンと打つとそこから連鎖的に広まり、どこが最初だったのかわからないようなことっていっぱいあるじゃない? その起点に過ぎないんだ。たとえば物語だってそうだよね。誰が語りはじめたかわからないけど、ものすごいバリエーションを生み出しながら、さまざまな地域に浸透しているよね。さっきの八郎湖の竜なんてそれ狙ってんだもん。誰があれを言い出したのかわからなくなればおもしろいでしょ。うふふふふ。そういう物語としての文脈。それこそが近代化の文脈に対峙できるものなんだよ。
物語の文脈を止めてしまったのが科学技術や近代思想なんですか?
そう。自分以外の、自然をも含めた他者を操作して、組織などの名のもとにいいようにしてしまった。自然や環境を、相互作用をもたらすものとしてみなさなかったんだよ。だから、間に何かが生まれてくることもなかった。それを手探りで探っていく必要があるんですよ。
みんなさ、自分の文脈に相手を取り込もうとするじゃない。話をする場合にも、自分のロジックを持っていて、いかに自分の意見で相手を組み敷くかみたいなことになる。そういうのって対話って言わないんですよ。それはネットワークじゃないよ。そういうものの言い方には何かを変える力はないよ。プレゼンテーションとかネゴシエーションしている人たちはみんな、力づくで何かをしようとしているけれど、あれじゃあダメですよ。自分と同じ考えの人を増やしていこうとしているだけでね。病気ですよ。暴力ですよ。
そのような考え方には、はじめて触れたような気がしますね。
本来、対話とは、言葉に何かが到来することを指すんですよ。意味や価値といったものが言葉に到来する。いま、こうやって言葉を交わしているでしょ。自分だけがものを言っているのではなく、相手と対話をしていると、相手との間に言葉が浮かぶことになる。言葉を浮かせておき、それがなんらかの形を作るように、互いに働きかけていくんです。そうすると、これまで気がつかなかった言葉の意味や重みが到来するんですよ。
そういうことをハイデカーという20世紀の有名な哲学者が言っている。要するにそれが相互作用ですよ。普段、自分の中で考えていることや文字で書いていることに、どういった意味があるのか。対話をすればその形が見えてくる。変えるってのはそういうことなんですよ。世の中を変えたり、人を変えたりするということは、一緒に変わっていくということなんですよ。
難しい話ですね。
難しい? たとえばみんな、"自分たちはこういうふうに世の中を変えたい"とか"自分たちはこういう取り組みをしてます"って言うけど、みんな仲間が増えないとか、決まった人たちしか集まってこないってことで愚痴が出てくるもんなんですよ。まったく異質なところに拡張していくような取り組みになってない。だから世の中変えられないんだよ。つまり相互作用を生み出せていないんだよ。
自分たちの文脈でものを語り、自分たちの文脈の中に相手を取り込もうとしているから広がらないんだよ。それが見え見えだからさ。オレなんてそんな話を聞いたらまっさきに逃げるね。
あはははは。
納得、説得じゃ、ダメなんだよ。それはみんなしているんだよ。みんな壁を作っちゃって、その壁の内側に相手を取り込もうとしているんだよ。あるいは自分の陣地を広げようとしている。そうじゃなくて異質なものとどんどん混ざり合っていかないと。そのままで一体化していかないと。どんどん分散化していかないと。
若い人たちは、どのような行動をとればいいとお考えですか?
なんでもいいと思いますよ。なにか感じることってあるでしょう。
文学でも音楽でも、なんかすごくピンとくるものが。すごく入ってくるものがさ。それととことん向かい合うことだよ。オレはそうしている。そのときに感じている気持ちは、言葉にならないものなんだ。その言葉にならない気持ちに、言葉を見つけてほしい。そのときに自分の中から本当に出てくる言葉。あるいは言葉にもならないようなある感じ。それとじっくり向き合って自分の言葉にして、表現してほしい。それが一番。対象は自然だろうが、音楽だろうが、子供だろうが、絵画だろうが、なんでもいい。哲学書でもいいよ。
●欲望をデザインしなくっちゃ
●“個”ではなく“場”として機能する
●ぴんときた言葉にならない感情にじっくりと向き合う
「文脈の読み換え、言い換え」「個ではなく、場として機能する」など、聞いたことのない考えにぶつかり、正直な処、インタビュアーはかなり戸惑いを感じました。しかし同時に、これほどまでに興奮したインタビューもめずらしい。次回第2回目は、現在のような飯島さんの人格は、どのように形成されていったのかに迫ります。またしても、謎の話が展開です!
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Wrote 2009.01.22 << 前のインタービュー | 次のインタービュー >>