vol.118 谷口奈保子
NPO法人ぱれっと創設者/前理事長 URL:http://www.npo-palette.or.jp/
1942年9月 中国・奉天(旧満州)に生まれる
1965年3月 明治学院大学英文科卒業
1982年3月 明治学院大学社会福祉学科卒業
1983年7月 「たまり場ぱれっと」を開所
1985年4月 「おかし屋ぱれっと」を開所
1991年1月 「スリランカレストランぱれっと」を開所
1993年8月 「えびす・ぱれっとホーム」設立
1999年5月 「ぱれっとインターナショナル・ジャパン」設立
1999年10月 Palette(スリランカぱれっと)開所
2002年5月 NPO法人ぱれっと設立
2002年 1月 よりNYで1年間研修(NPOマネジメント)
2002年12月 「ヤマト福祉財団賞」受賞
2005年8月 著書「福祉に、発想の転換を!~NPO法人ぱれっとの挑戦~」発行
2006年5月 谷口奈保子理事長退任。宮島敏理事長就任
2006年11月 「第10回糸賀一雄記念賞」受賞
こんにちは! テトルの本村拓人です!!
今号から3回にわたって、NPO法人ぱれっとの創設者で前理事長の谷口奈保子さんにご登場いただきます。
障がい者と健常者がともに暮らせる社会の創造を思い描き、谷口さんが福祉の分野で活動をはじめたのは40歳になってから。そのエネルギーはすさまじく、これまで障がい者が集まる"たまり場ぱれっと"を開設したのを皮切りに、クッキー製造所の"おかし屋ぱれっと"の設立、接客業に取り組んだ"スリランカレストランぱれっと"の開店、さまざまな人たちが共同生活を楽しむ"ぱれっとホーム"の設置、スリランカに「Palette」を設立など、幅広いプロジェクトを手がけて来ました。
ここでは、そんな谷口さんの活動に対する想いをクローズアップ。第一回目となる今回は、谷口さんが福祉の道へ進む決意を固める様子をお届けします!
エネルギッシュな活動をされている谷口さんですが、その活動の原動力はなんなのでしょうか?
怒りです。世の中の理不尽なことに対する怒り。 私、負けず嫌いなものですから、そういったものを目にすると黙っていられないんですよ。障害者のケアという福祉の分野に進んだのも怒りが原因です。障害があるというだけで、ふつうに生きていく権利が奪われてしまうことに納得がいかなかったんです。
なるほど。それでは、そもそも福祉の道に入られたのはどうしてなのか、教えていただいてもよろしいですか?
はい。話はかなりさかのぼって、私の母のことからお話させていただきますね。私のいまの活動を語るとき、母からの影響というのは避けて通れないところがありますので。 私の母は明治36年生まれ。私は、その母が40歳のときに生まれました。1942年のことです。母は当時の女性にしてはめずらしく教育熱心で、女性の私が将来自立して生きていくための教育を施してくれました。「ちゃんと大学に行きなさい」と言うんですね。
1960年代ですよね。それは珍しいかもしれませんね。
そうなんです。私の姉は、私より15も年が上なのですが、姉も4年制の大学に進学しているんですよ。「短大ではダメだ」と母は言うんです。「4年制じゃなきゃだめ」って。私が「どうして?」って尋ねると、「2年間勉強しても、あと2年ある。そこで人間関係を作るなど、人生を勉強しなさい」って。
それは人生が変わりますね。
ええ。たとえ女性であっても、経済活動も含めて自立していなくてはならないと考えるようになったのは、母の影響が大きいと思います。
いまの活動に繋がる考え方のひとつなんでしょうね。
でも、結局は結婚して、家庭に入ることになりました。子供が3人できましたし、夫は古いタイプの男性でしたので、私が働きたいと訴えても「まだ子育ての時期だろう」と言うような人だったんですね。夫は自営業で、しかも二代目という立場でしたから、封建的な感覚が強かったんですよ。ところがそんなとき、転機が訪れるんですね。小児がんで4歳半の長女が亡くなったのです。
......それはつらい体験ですね。
亡くなることがわかっている娘を励まして看病する日々は非常に堪えました。ボランティアに目覚めたのは、このときから。病気になっている子供たちのことはもちろん、そのまわりの家族のケアもきちんと考えなくちゃならないと思って、病院でボランティアをはじめたんですね。末期の子供たちの相手をする仕事でした。
これから回復して元気になる子たちならまだしも、末期の子供たちを相手にするなんて、辛すぎやしませんか?
夫にも同じようなことを言われました。私がボランティア先に選んだのは、私の子供が亡くなった病院だったこともあり、「そんなことできる神経がわからない」って。でもね、子供を失った母親のつらさを体験として理解できましたから、そういった家族へのケア体制が整っていないことが残念でならなかったんですよ。なんとか、新しいシステムが作れないものかと考えながら働きました。
並々ならぬ決意だったわけですね。
夫とは離婚しようと思い、そのように申し出ました。夫は相変わらず私に家にいて家事育児に専念してほしいようでしたから、この先30年の人生を考えたときに、一緒にやっていけるとは思えなかったんですよ。 高校を卒業した私は大学の英文科に進学しました。英語が大好きで、ゆくゆくは教師になりたかったんです。それで18歳の頃から、私塾のようなかたちで、英語教室を開いていたんですね。子供ができてからも教室は続けていて、それこそ子供を入れた揺りかごを足で揺らしながら授業をするようなことをしておりましたから、たとえ離婚しても、なんとかなるだろうと思っていたんです。ここでも、「自立した生き方をしなさい」という母の教えが活きています。離婚を考えたときに、たいして恐怖心などはありませんでした。
それで、離婚なさったのですか?
そうはなりませんでした。ボランティアがやりたくても思うようにやれず、私も苛立っていたところ、残ったふたりの子供たちの様子がおかしくなってきてしまったんです。それで、いよいよきちんと話し合いをしなくてはいけない、と、夫と夜を徹して何度も何度も話をする時間を作りました。 そしたらね、「それだけ福祉をやりたいなら、もう一度大学に入って、きちんと勉強してみたら?」って夫が言ってくれたんですよ。「できるだけ、家事や育児にも協力するから」って。それで私は、再び大学に戻ることになりました。子持ち大学生の誕生です。このとき私は、37歳になっていました。
家庭があって、お子さんもいて、大学生って、大変ですね。
そりゃあ大変でしたよ。毎朝5時に起きて、家のことを一通りやって、それから午前から夕方までは大学で勉強でしょ。帰ってきて子供にご飯を食べさせて、夫にも食事をさせて、それからまた勉強して、だいたい寝るのが午前1時。負けず嫌いでしたから、家庭のこともおろそかにしたくないという気持ちはありましたね。 それでもね、成績は、最初に大学に通ったときより、2度目のほうがよかったんですよ。遊びじゃなかったですから、2度目は。勉強する意欲も目的も全然違っていましたからね。それに、家族に負担をかけていることも知っていましたから、がんばったんですよね。
なるほど、それは成績も伸びそうですね。
大学では子持ち大学生として結構有名だったんですよ。ベビーシッターに預けられないときは、教室に子どもを連れて行ってましたから。 おもしろいこともいっぱいありましたね。たとえば、2回とも同じ大学に通ったのですが、最初に通ったときからずっとその大学にいらっしゃる先生がいて、「おい、何やってんだお前。講演でも聴きに来たのか?」なんて尋ねられて、「また、戻ってきたんですよ、先生!」なんて言ったり。英語教室で教えていた生徒とばったり出会って、「こんなところで何やってるんですか、先生!?」なんて尋ねられたりね。 あとね、授業を受けていたら、ぺちゃくちゃとうるさい男の子たちのグループがいたので、授業が終わってから「あんたたち、いったい何の権利があって授業の邪魔をするのよ。しゃべるなら外でやってよ」って説教したら、次の日から「昨日はすみませんでした」なんて、その子たちと仲良くなったりね。
あっはっは。本宮ひろし系の青春漫画みたいですね。
本気で福祉の道に進もうと思ったとき、まわりの人はみんな反対しました。「離婚も考えている」なんて言うと、やれ、わがままだ、贅沢だ、とね。そのときも、賛成してくれたのは母だけです。「いまやりたいと思ったことがあるなら、いま始めなきゃ、いつまでたってもはじまらないよ。」そういって、背中を押してくれましたね。
●人間関係を作るなど、人生を学びなさい
●夜を徹して、夫と何日も話し合った
●遊びじゃなかったから、成績は良かった
次号は、ぱれっととしての活動をスタートさせてからのお話です。
組織はどうして大きくなっていったのか。そして組織を運営するうえで、もっとも難しいことはなんなのか。
強さと厳しさの中に、人間らしい優しいまなざしが宿る谷口さんの言葉に耳を傾けてください!
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Wrote 2009.04.27 << 前のインタービュー | 次のインタービュー >>