vol.121 曽根原 久司
NPO法人えがおつなげて代表 URL:http://www.npo-egao.net/
1985年3月
明治大学政治経済学部経済学科卒業。フリーター、ミュージシャンなどを経て、経営コンサルティング会社に就職する。
1995年11月
日本の経済構造のあり方を危惧して、山梨県に住居を移し、自給自足の暮らしを実践。
2001年6月
NPO法人えがおつなげてを設立。都市と農村を繋ぐ資源循環型の経済の確立を目指し、さまざまなプロジェクトを手がける。
こんにちは! テトルの本村拓人です!! 今号から3回にわたり、NPO法人えがおつなげての曽根原久司さんにご登場いただきます。 インタビューそれ自体の詰めの甘さや原稿の未熟さもあるとは思いますが、個人的には今回の記事は必読だと考えています。未来をイメージすること。そしてその未来に向かってプログラムを構築すること。その実践についての話が描かれているからです。 曽根原久司さんは、1990年代半ばより個人的に自給自足生活の実践を試み、規模を拡大し、農村と都市を結ぶプログラムを手がけてきました。環境破壊が問題視され、農業を営むことや自給自足で生活することの重要性が語られるようになったのは、かなり昔のことになりますが、初期段階からロジックではなく実践で解決を試みた人は少なかったのではないかと思います。 もちろん、誰にでも簡単に実行に移せることではないのかもしれません。しかし、そういったものの見方やアプローチの方法には、学ぶことがたくさんあるように感じました。 第1回目の今回は、金融コンサルタントしてバブル期からその崩壊までを体験した曽根原さんが、農業に着目するまでをお届けします。
もともとは、コンサルティング業務一本だったという曽根原さん。農業にシフトしていった理由はなんだったのでしょうか?
私がコンサルティングを行っていた先は、一般企業もありましたが、メインは銀行や金融機関だったんですよ。コンサルティング業務をはじめたのは1989年頃でしょうか。バブルの絶頂期から崩壊局面まで、コンサルタントをやりながらすべてみていました。 バブルの絶頂期は浮いた話がたくさんありましてね。いろんな相談を受けるわけです。たとえば、ある銀行から、支店の調子がよくないから建て直してくれ、みたいな依頼がくれば、実際に現場を観に行って、経営を立て直す半年がかりくらいのプランを作って、それを実行していくわけです。 途中で金融が自由化されることになり、その過程でいろんな商品の開発の相談にも乗りましたね。やっぱりそれまで護送船団方式でやってきたから、急に新しい商品を作ることもすぐにはできないわけです。
金融商品は差別化が難しそうですものね。
まあ、どういう付加価値をつけるかってことなんですけどね。経営していくうえで、お客さんの満足度って、すごく大切なんですよ。だからまず、銀行にカスタマー調査をしてもらい、その結果から企画を立てていましたね。
なるほど。
バブルの絶頂期は本当にすごかったですね。銀行の人と飲みに行って、夜中の1時、2時を過ぎてくるでしょう? それで、いざ帰ろうと思ってもタクシーがつかまらないんです。いないわけじゃなくてね。
僕はバブルを体験していない世代になるのですが、タクシーを止めるために札束を振っていた、なんて話をきいたことがあります。
タクシーチケットもいくらでもあったしね。まあ、そういう時代でしたよ。それが日経平均株価が4万円に乗っかろうかという1993年、バブルが弾けたんですよ。
金融関係のコンサルタントをされていたのなら、その衝撃は大きかったでしょうね。
そうですね。生々しい現場を見てましたからね。某長期信用銀行のコンサルティングもやっていましたが、がたがたでした。銀行のコンサルティングをしていると、その融資先の企業の状況もわかるわけですが、ひどいもんですよ。不良債権が積み上がって、どうなっちゃうのかなって思っていましたね。 いま世界バブルでしょ。だから、世界がこれからどうなっていくか、手に取るようにわかりますよ。同じことやってますからね。順番がまず、日本の場合は住専問題だったでしょ。それから証券に行って、大手銀行に行く、と。資産バブルを起こしていた株には、逆資産効果が働いて、銀行は貸しはがしをやるようになります。 あの当時のことを思い出すと、本当にひどいもんでしたね。たとえば、プレッシャーに押しつぶされた銀行員が話をしている最中に倒れて痙攣を起こしたこともあった。目の前でね。本当にひどかった。
そういう生々しい現場で、曽根原さんは何をお感じになられたのでしょうか?
私の仕事は、お客さんの経営状況を立て直してあげることだったのですが、どうしようもなかった。ああ、こりゃちょっとダメだなと、無力感を味わいました。
コンサルタントひとりの力では、どうしようもないな、と。
もちろん、そんな中でも仕事はやっていたんだけど、だんだん、これは日本の経済構造そのものを転換しないとダメだなと考えるようになったんです。
経済構造そのものを転換しなければならないと思ったのは、どうしてなんでしょうか?
それをしなければ、国内産業がダメになったしまうと思ったから。端的にいうと地域経済が破綻してしまうと思ったんです。バブルが崩壊した後、企業はリストラをしなければ存続できないような状態になっていたんです。やらないとみんな倒産しちゃうような状況でした。あるいは、活動拠点を海外に移す必要がある。 それはすごくよくわかることだったのですが、そうなると今度は、その次が気になるわけです。生き延びようとする企業は、グローバリゼーションの荒波にこぎ出して生存競争しなくちゃならないし、そこでリストラを行っていれば、自然に日本の地域経済はダメになる。
グローバリゼーションの市場で、日本の地域経済は戦えなくなるということですか。
安い原材料は海外で調達しようとするわけですからね。雇用を支えているのは東京の大企業だけではなく、地方の中小企業も当然含まれます。だから、これはやばいな、と。地方で重要なのは農業や林業などの地方産業なのですが、状況を見てみるとよくない。高齢化が進んでいるしね。 長期的な目線で見ると、人口は増え続けている。そうなると、このままでは食料危機やエネルギー危機が訪れることはわかっていたことですよね。1990年の時点で化石燃料はあと50年でなくなるとも言われていましたし。 データを見ながら、グローバルな市場で勝ち残った企業は生き残るだろうなと思いました。でも、そうではないドメスティック(※国内産業に携わる)な企業群はがたがたになる。また、世界的な資源インフレ時代がはじまると、日本の自給率の低さはアキレス腱になるだろうと思いました。食糧自給率は40パーセントほどだし、エネルギーの自給率は4パーセントほど。これはまずいです。そういう状況を見つつ、有効ななにかを作っていかなくては日本はダメになると感じたんです。
曽根原さんは、日本の未来をどのように予測されているのでしょうか?
このまま行くと、2012年に日本はアウトになる可能性がある。私はそう思っています。2015年マスタープランというものを個人的に作ったんですよ。なぜ、2015年かと言いますと、このまま行くと確実にアウトになるのがその年だから。その頃には、1300兆円ある日本の金融資産を国家と地方の財政赤字が越えてしまい、完全なる赤字国家になります。 いまの経済構造では赤字が積み上がるばかりだから、その延長線上で改善を図ろうとしても無理なんです。
●バブルの頃は、“そういう時代”だった
●どうなっちゃうのかなって思っていましたね
●有効な何かを作らなくては、日本はダメになる
バブル崩壊を目の当たりにし、金融コンサルタントとしての無力感に呆然とした曽根原さんは、経済構造の転換を目指して実験的な自給自足生活を試みます。次号では、農業を経営として捉え、戦略的に事業を拡大していった曽根原さんのプロジェクトに着目。いかにして事業が育まれるかをお届けします!
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Wrote 2009.05.19 << 前のインタービュー | 次のインタービュー >>