vol.122 曽根原 久司

NPO法人えがおつなげて代表  URL:http://www.npo-egao.net/

1985年3月
明治大学政治経済学部経済学科卒業。フリーター、ミュージシャンなどを経て、経営コンサルティング会社に就職する。

1995年11月
日本の経済構造のあり方を危惧して、山梨県に住居を移し、自給自足の暮らしを実践。

2001年6月
NPO法人えがおつなげてを設立。都市と農村を繋ぐ資源循環型の経済の確立を目指し、さまざまなプロジェクトを手がける。

こんにちは! テトルの本村拓人です!! 3回にわたってお届けするNPO法人えがおつなげての曽根原久司さんのインタビュー。今回は2回目の記事となります。 バブル隆盛期から崩壊までを、金融コンサルタントという立場で間近に見つめてきた曽根原さん。時代の荒波に巻かれ、コンサルタントとして無力感に打ちひしがれるとともに、「高度経済成長期を生んだ従来の経済構造を維持すれば、日本はやがてダメになってしまう」と、日本の未来に大きな危機感を抱きました。 そんな曽根原さんが持続可能な社会を形成するために必要だと感じたのは、国内循環型の経済構造でした。重要なのは、地方経済の見直しを図ること。曽根原さんは自身の仮説を検証するために、山梨県に居を移し、自給自足の生活への挑戦をはじめます。 今号では、単なる一農家というレベルを越え、農業を事業としてとらえたプロジェクトを推進する曽根原さんの戦略性などについて話を伺いました。

日本の地方都市は、地上資源や水資源が豊か

曽根原さんは現在、山梨県で農業を事業として行っています。山梨県を選んだ理由を教えてください。

順を追って説明しますね。日本経済の崩壊シナリオが予測できてしまうと、何か新しい有効な手立てを考えなくてはならなくなった。それでいろいろ考えたときに、地上資源の有効活用ということを思い描いたんですよ。今後、資源が重要になってくることは目に見えていますからね。 日本には、地下資源こそあまりないけれど、地上資源は豊かなんです。日本は国土の67パーセントが森林。これは世界でも有数の林野率なんですね。あとは水資源。これも豊富にあります。 資源涸渇時代に、それを活用できないかな、と思ったわけです。 それで、それらの資源がどこにあるかと考えると、ほとんど農村地帯にあるんですね。農村地帯の課題は、過疎化であり、高齢化。つまり若い生産人口がいないんです。それでは資源は動かせない。ここを踏まえたうえでどういう仕組みが必要かと言えば、都市と農村の連携構造なんですね。企業や大学、農村などが連携できる社会システムが作らなくてはと、そういう考え方ですね。

曽根原さんが運営されているNPO法人えがおつなげてのコンセプトの部分ですね。

そうですね。そうやって、概念的にコンセプトを考えていったのですが、手法はふたつあるなと思ったんですね。まずひとつは、コンサルタントとして評論活動をすることです。文章を書いたり広報をしたりして広めていく方法ですね。もうひとつは、実際に活動モデルを作っていく。活動モデルを作って、それを広めていくという方法です。それで、似たようなモデルを探したのですが見あたらなかったんですよ。だったらモデル作りをやろうかな、と。

都市と農村はあまり関わりがなかったわけですか。

分断されてますね。農村には、日本の都市の基盤となるものがないですから。生産物にしても海外からの輸入に頼っていて国内の農業はあまり価値が置かれてきませんでした。海外から安いものを入れればいいってね。 それでモデルを作る場所をどこにしようかと考えたときに、ふたつの条件を設定したんです。ひとつは、地上資源が豊かなところ。もうひとつは、都市と農村の連携という意味で、日本最大の都市である東京に近いところ。そのふたつの要因を満たすのが、山梨県だった、というわけなんですね。

テストした結果、農業や林業は食えるということがわかった

山梨県以外にも候補となった場所はあったのでしょうか?

ありましたよ。山梨のほか、群馬、長野、千葉、埼玉ですね。その中から山梨を選んだのは、まず林野率が78パーセントもある。これは全国で5本の指に入ります。また、ほったらかしになっている農地が非常に多い。耕作放棄率は日本で2位なんですね。遊休農地は農家から見れば困ったものでしょうが、私から見ると、"なんともったいない!"という感じでした。さらに、太陽の日照時間が一番長いのも山梨県。 このようにさまざまなデータを引っ張ってきてみると、山梨ってすごいんですよ。場所にしても、首都圏からも2~3時間ってところでしょ?

なるほど。山梨県ではどのような活動を進めていったのでしょうか。

私が山梨に移住したのが1995年。まずは、自給自足の生活を実践に取りかかりました。私はこれを社会実験として捉えていたんです。私には家族がありますので、個人でやるのか、家族でやるのかを検討した結果、家族で実験をはじめることにしました。一番小さなモデルですね。 最初は農園を借りました。それと同時に、薪ストーブで生活していたので、蒔を調達するために林業の手伝いもはじめたんです。借りている農地を1年目は100坪(※一坪は約畳2畳分のスペース)、2年目は300坪、次は800坪、2ヘクタール(※200m×200m)と、どんどん事業規模を拡大していきました。

たくさん借りられるんですね。

私が住む北杜市には、耕作放棄農地が650ヘクタールあります。東京ドーム球場の650倍ですからね。いくらでも借りることができるんですよ。もう2ヘクタールにもなると、農作物はとても食べきれる分量じゃないから、それを販売するんですね。 林業のほうも蒔ストーブ用の薪を集めていたのですが、どんどん規模が拡大していった。で、近隣に薪ストーブを使っている別荘なんかありますから、そこに対して薪を販売するような事業もはじめまして。農業や林業は一般的には食えないとされている職業ですが、十分食べられるってことがわかりました。

農業への挑戦はやり方次第だが、元手はあったほうがいい

曽根原さんのような生活をしようと思ったら、準備資金はどのくらいいるのでしょうか。

それは難しい質問ですね。元手はもちろんあったほうがいいですよね。私はありませんでした。ただ、私には元手こそありませんでしたが、コンサルタントの仕事を継続していたので生活費に困るというようなことはありませんでした。山梨で農業をやりながら、必要があれば東京へ行きコンサルティング業務を行っていたわけです。要するにやり方次第かな。

農業を営むということについては、どのように勉強されたのでしょうか。

私は出身が長野なんですが、田舎の家でして、農業の手伝いをしていたことがあったんですね。ですから、実際に農業に携わってみると、身体がある程度覚えていて、ちゃんとできるんですね。田植えや稲刈りなんてうまいもんですよ。 でも、当時は子どもだったから、全体をマネジメントする能力がなかったんです。経営として農業を見ていない。これはいまの農家全体の問題でもあると思います。農業経営に関しては、山梨に移住する前から計画を立てていましたので、それを実践しながら検証していった感じです。

Word of power

●モデルがなかったから、作ろうかな、と。
●食べきれない分を販売していった
●山梨に移住する前から、計画を立てていた

一農家としてやっていくことができるのか、という実験はうまくいきましたが、曽根原さんの真の目標は、社会システムに変革を起こすことでした。次号は、人に波及していくためにどのような事業モデルを組み立て、広報していったかなどについて、お話をお伺いいたしました。

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