vol.135 永田麻美

「いちぐう」編集長  URL:http://www.ichigu-doc.jp/

地域と人のドキュメンタリーサイト『いちぐう』編集長。農業雑誌『びれっじ』で12年間編集長務め、自ら全国津々浦々の農山漁村を歩き、取材、執筆。別の雑誌編集長を経て、ライター、編集者、地域開発コーディネーター・アドバイザーとして活動中。講演や地域のアドバイス事業では、独自の視点からの分析を行う。会場とシンポジストの対話を促しながらのディスカッションなど、シンポジウムを始めとする各種イベントのコーディネートには定評がある。

最近、地域活性化が脚光を浴びています。そうした中で農業への関心も高まってきています。今回は、90年代から農業や地域の問題を取材し、現在は「地域と人のドキュメンタリーサイト いちぐう」の編集長を務める永田麻美さんにお話を伺いしました。「みんなが知っている有名人じゃないけれど、いわゆる偉い人でもないけれど、自らに正直で、誠実に、地道に社会で生きている人たちを応援する」ためのサイトを運営しています。そこには、日本の津々浦々で活動する人たちの今の姿を伝えており、ひそかに注目を浴びています。永田さんが「農業」に関わるようになったのは、突然のきっかけだったとのこと。

突然、関わるようになった「農業」雑誌の編集

仕事を通して「農業」に関わるようになったきっかけを教えてください

それまでは農業とは全く無縁でした。前職のシンクタンクを退職後、その前職での取引先の社長から「変わったところがあるから行ってみないか」と紹介されたのが農業や農村の活性化を目的に活動していた農水省の外郭団体でした。1993年のことです。入職当初の仕事は総務課の庶務。民間から来た私はまったく違う仕事の仕方や時間の流れに戸惑い、あ、もうこれはダメだと(笑)。入職3日で辞めようと思っていたところ、そんな私の気持ちを察してか、私を採用してくれた当時の専務理事が自分が作った企画書などを持ってきては見せてくれるなど何かと気にかけてくれるようになりました。ある時、その団体が発行する都市と農村の交流をテーマにした季刊誌を外注から内作することになり、その会議の場で専務理事から「次はこの人がやります」と突然に私が指名されたのです。

それまで編集の経験はあったのですか?

全くありません。本当に全てが手探りでした。ただ、素人であることは常に読者の立場・視点から眺めることができます。当時はまだ農業の業界誌といえば専門用語だらけでした。大事にしたのは「生活者の視点」です。この雑誌は団体の会員(企業や地方自治体)向けの機関誌であると同時に、定期購読者を募っている一般誌の役目も担っていました。ですから、自分が日常の中でおかしいと思う素朴な疑問を切り口に、「農業や農村の問題を普通に、あたり前に、わかりやすく伝える」ことに腐心しました。

ところが、編集長とは名ばかりの、組織内部に編集部は私一人(笑)。あとは外部のデザイン会社、カメラマン、ライターさん。コストを切り詰めるためにも自分で取材して書いて編集する作業が増えていきました。

私はすぐに農業の世界の奥深さにはまっていきました。1つのことを取材しても、当然のことながらそれに関連するさまざまなこと、事の背景までも理解しなければ記事は書けません。しかしそのことがさらに私の興味を広げることになり、農業は私たちの生活のあらゆることとつながっているのだと実感するたびに、おもしろくなっていきました。誌面にはできるだけ、一見農業や農村の世界とは無縁に思われる業界の人を登場させて「実はつながっていること」を見せたり、関係なく思われる業界の中から食・教育・環境・農業・地域づくりなどの具体的なワードで結びつくものを拾い上げていきました。入口はあらゆる生活シーンであり、それを社会的テーマである農業や農村の問題にどう落とし込むかを編集方針としてきました。

当時は女性が農業界で仕事をするのは珍しかった頃。取材では、ただでさえ寡黙な農業者の人たちから話を引き出すために、まずはお酒でした。一緒に飲んで盛り上がり、宴たけなわの夜中の12時過ぎから取材が始まるということもしばしば。あとからみみずがのたくったような取材メモを読解するのに苦労しました(笑)。

「取材が終わったときから関係が始まる」。それをモットーに、取材後の関係を大事にしてきました。丁寧に取材し、丁寧に原稿を作って、丁寧にお付き合いをしながらネットワークを広げていきました。そのうちに、「ここまで自分の言いたかったことをきちんと書いてくれた記事は初めて」、「思っていたことがそのまま活字になった」と取材した人たちからの喜びの声が寄せられるようになりました。現場の生の声を私なりに解釈・理解した言葉で表現し、言外に流れる気持ちを読み取って文章にしていきました。その結果、私という人間を信用・信頼していただけるようになったのかなぁと思っています。今でも当時取材した記事が掲載されている号を「宝物だ」と大事にとっておいてくださる方、コピーを壁いっぱいに貼っていてくださる方がいて、ありがたいですね......ライター・編集者冥利に尽きます。

私の取材デビューは、実は阪神・淡路大震災直後の兵庫県下の農村なんです。「震災後の兵庫県の農村が復興に向けてがんばっている様子をぜひ見て欲しい」と電話があり、震源となったあの野島断層が畑の真ん中を切り裂いていた北淡町に入りました。震災の生々しい爪痕が残るただ中、非常にセンシティブな環境にズカズカと入って、人々に話を聞くことの意味を考えました。農業や農村の取材は取材対象者の日常に邪魔しに行くことに他ならない、だから取材をさせていただくという姿勢で臨むこと、現場の声の中に真実がある、現場から学ぶなどの基本ルールを最初の取材時に自然と体に叩きこまれたのかもしれません。

カウンセリングインタビューで「現場の声」を届ける

一番印象に残っている取材などはありますか?

先の阪神・淡路大震災後の農村の他、忘れられない取材は数え切れないほどあります。全ては取材する人と出会い、短い時間の中で魂が触れ合ったことの喜び、それらの積み重ねです。新潟でお弟子さんと2人で独特の方法で茅屋根を葺いておられる職人さんの言葉が今でも耳に残っています。穏やかな顔でこう言われました。「誰も見てないからいいっていい加減なことやってもね、お天道様はちゃーんと見ておられるからね」。取材後や掲載後にいただくお手紙にもけっこう思い出があります。熊本のある農場を取材した際、そこで働く若者がスタッフ揃っての写真撮影のときに「出来上がったらこれをお袋に送ってほしい」と住所を書いたメモをくれました。約束通り彼の実家に見本誌を送ると後日、彼のお母さんから手紙が届きました。「男の子なのでなかなか連絡もしてくれず無事でいるのかもわかりませんでした。でもこれからは大丈夫です。この雑誌を開けばいつでも会えますから。ありがとうございました」。母の子を思う気持ちに泣けました。

うれしかったのは、取材した方がその後有名になられたこと。言ってみれば人材を発掘して世に送り出したような感じです。たとえば、岐阜の椛の湖(はなのこ)で農業小学校を立ち上げた安保(洋勝)さんは全日本フォークジャンボリーを開催したことでも知られる方。取材後他メディアからの引き合いが増え、全国区になりました。また、同じく岐阜の、今では「しいたけブラザーズ」という社名で活躍する横田さん兄弟もそうです。肉厚で本当においしい、最高級の原木無農薬栽培のしいたけを真摯な姿勢で作り続けており、何といっても兄弟3人とも身長180センチ以上のイケメン。最初にお会いした時、無駄のない筋肉質の体にTシャツにジーンズ姿がまぶしく、これは農業界のジャニーズだと興奮しました(笑)。京都の南山城村で、日本で唯一の動物園の動物たちの餌をオーダーメードで生産・販売する「クローバーリーフ」の西窪ご夫妻の場合、ニッチなお仕事であることもあってそれまで本格的な取材は一切お断りされていました。それがある会合で奥さまのあけみさんにお会いしたことをきっかけに、取材がかないました。できた原稿にご夫妻が非常に感動してくださったことは今でもしっかり覚えています。その後あれよという間に、こちらの会社とご夫妻はさまざまなメディアをお見かけするようになりました。

取材先を決める時は、人伝で紹介される場合と、他メディアで見つけてピンときた情報からアプローチする場合とがあります。私の取材スタイルは、いわゆる質問項目に沿って答えを引き出すようなジャーナリスティックなものではありません。相手に好きにしゃべってもらいます。まずは雑談から入り、相手が気持ちよく自分らしく乗って話をしてくれるよう「場」を整えるだけです。インタビューでは、知らぬ間に心のうちの深い話をしてくださり「思わず話してしまった。普通はよその人にこんなことまで話さないのに」、「なんか安心して話すことができた」とおっしゃっていただくことが多いのです。ある時、ああ、これはカウンセリングの手法だったのかと気づきました。<br> 実は、高校生の頃に登校拒否になったことがあります。その頃、一番そばにいてほしかったのは、心の声をただ黙って聞いてくれる人でした。後にそれが「カウンセラー」というものであると知り、社会人になってから先生についてカウンセリングを一時本格的に学んだ時期がありました。最近、『プロカウンセラーの聞く技術』という本を読み、私のカウンセリングインタビューは、私が目指す編集や記事の方向性にとっては、あながち間違ってはいなかったんだと改めて思い知った次第です。

「いちぐう」を始めるようになった理由は?

雑誌を作って10年近く経った頃、私の中で疑問が頭をもたげてきました。現場の声を聞けば聞くほどに、現場(地方)と机上(中央)とがかい離していくことに、隔靴掻痒のジレンマに陥っていきました。組織の一員である以上、さまざまな制約もありました。このままでは現場の信頼に応えることができない。日に日に、もっと具体的に現場のお役に立ちたいと考えるようになり、ついに職場を辞めることにしました。

独立の決心がついた一番の理由は、取材を通じて知り合った地方の方々の存在です。私を育て支えてくださったこれらの方々に、ご恩返しがしたいとの強い思いがありました。ただ、独立後の生活にきちんとした計画はありませんでしたし、正直、不安もありました。そんな時、「仕事がにっちもさっちもいかなくなったら、うちにおいで。家ならあるから」、「食べるものだったら、いつでも送ってやるよ」、「ごめんね、なかなか連絡しないで」。その言葉に、ハッとしました。そうだ、私にはすでに強固な「ライフライン」があったんだと。この人たちがいてくださるから生きていけると、不思議な自信と力が湧いてきたのです。

まずは私の存在を知らせ考えを発信する媒体が必要だと思い、初期投資を抑えてブログ形式のサイト「いちぐう」を立ち上げました。「いちぐう」の名には、以前から座右の銘にしていた最澄の「いちぐうを照らす」と、「千載一遇」の両方の意味を込めました。

誰の中にも物語はあります。偉くもなく有名でもない市井の人が一番すごいと私は思っています。その懸命に毎日を生きている普通の人にスポットを当てるような小さなメディアがあってもいいじゃないか。「いちぐう」は、まだまだメディアと呼ぶにはお恥ずかしい粗末なものです。でも、多くの人が生きにくさを感じ、自分の生きる目的存在意義、価値を日々探し求めている現代だからこそ、私もその一人として、ここから私の目を通して見たことを綴り発信していくことで、少しでも同じ思いの人に勇気を持ってもらえたらうれしいなと思っています。また、「いちぐう」では、地域の課題解決に私のネットワークの中からテーマに合わせて最強ユニットを組む「てまかえ」の紹介もしています。胆に銘じているのは、必ず「何のために、誰のために」それを行うのかを忘れないことです。

仕事におけるミッションでは何を掲げていますか?

「人の幸せって何だろう?」、「どうすれば人は幸せでいられるのか」を考え行動することです。たとえば、地域が幸せな状態とは、突き詰めれば若い人が安心して暮らせるような雇用の場があることだと思います。そのためには地域内でおカネが循環する仕組みをつくらなければなりません。しかし、ある商品を売るためにマーケティングして顧客を絞り関係機関をコーディネートして販促営業して......と企業経営と同じ視点で進めれば地域経済も回るはずというのは、少々乱暴なのではないかと思うようになりました。

地方(田舎)と中央(都会)では時間の流れが違います。血縁社会である農山漁村では、何事においても地域の人間関係がベースとなり、ネックとなります。だから物事の進展するスピードも遅い。グローバル経済、資本主義ビジネスのセオリーに則り、ついてこられない地方はビジネスパートナー失格になってしまうのか。

ある地方のフォーラムでパネルディスカッションのコーディネーターをした時、パネリストの一人だった地元で特産品の加工・販売をしている地域づくりNPOの女性が、「今の課題は、どうすれば地域主体でビジネスを進められるのか、買い手(中央)に振りまわされずにすむかだ」と発言しました。地方で、時間をかけて良い商品を作り来年はもっと増産しようと新しく加工場を建てたとたん、取引中止となるケースはままあります。それは地方だけでなく、日常の企業経営の中で頻繁に起こっていることかもしれません。「営業が足りないからだ」、「新しい販路を開拓すればいいだけ」と切って捨てるのは簡単です。しかし、組織と契約でつながっている社員で構成される一般企業と、住民で構成される地域を同列には語れません。単に価格やコスト面だけで見てその時々の付き合いビジネスに終始すれば、地域の経済はつぶれます。地域とビジネスをする企業は、「育てる」視点を持ってほしい。軌道に乗るまで一緒に困難を乗り切っていく時間が必要です。現在は、そんな悠長なことを言っていられるほど企業も余裕がないのかもしれませんが、ほんの少しだけ相手を思いやる気持ちがあれば変わるのではないかと私は思うのです。

以前にテレビで、水道代を浮かせるために、井戸を掘って使う企業が増えてきている、そのせいで、その地域の水道行政が赤字に陥り、混乱を招いていると伝えていました。東京都はかなり前に地盤沈下のために井戸の掘削は規制されているのですが、地方は緩やかで汲み放題の状態だそうです。そのうちにあちこちで地盤沈下や地下水の枯渇問題が起こるかもしれません。企業にとっては今は少しでもコストを抑え利益を生み出したいのでしょうが、地方の資源や財政を平気で犠牲にしてまでやっていいことなのでしょうか? そこに暮らす人たちがいることにわずかでも思いを馳せることができれば違うのではないか。だから私は他人への思いやり、共感する気持ち、すなわち「情緒」が今は一番大事だと思うのです。損得や駆け引きのない関係で、他人の喜ぶ顔が見たいと人々が自然に動き出したとき、社会は変わるのだと思います。

「社会の歯車になりたい」が私の願いです。人間には誰しも役割があります。一人ひとりがそれぞれの立場で役割を果たし、ベストを尽くせば、きっと社会はよくなるはず。そう私は信じて取り組んでいます。

ページトップ写真→「東祖谷フォーラム(パネリスト中央が永田さん)」撮影多賀陽介さん
カテゴリー一覧写真→「鳴子風の道」撮影林泉さん

Word of power

「社会の歯車になりたい」
「何のために?誰のために?常に基本に立ち返る」

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